風ふくまで

いつもクルマのことばかり考えています

石炭全盛期の記憶


福岡県には炭鉱が数多存在しエネルギー革命前は東京や神戸に大量の石炭を移出するなど日本の工業化に大きな役割を果たした。あれから半世紀以上経ち、多くの福岡市民は石炭は筑豊地方(福岡県の内陸の方)で算出されており同一県内ながらも少し遠い地域の話だという理解をしている人も多い。僕も遠からずその1人で、志免の竪坑以外は全て筑豊の話だと理解していた福岡市民の1人であった。

昨年、明治日本の産業革命遺産世界遺産に登録され、その中に福岡県の炭鉱関連施設も入っているとのニュースを聞いた。調べたらそれは大牟田三井三池炭鉱であった。志免の竪坑にはそれ程価値はないのかと思い、さらに調べると第二次大戦以前に建設された竪坑の中で現存するものは志免、撫順、トランブルールの3つしかないとのことだった。トランブルールは知る由もないが、撫順は高校(中学?)地理で習うフーシュンのことだ。フーシュンは全国の高校生が習うのに、志免のことは習わなくていいのか。


志免以外にも周辺に炭鉱があったことも分かった。宇美、久山、篠栗・・・いずれも地元のすぐ近くだ。しかも実家のすぐ近くを石炭を運ぶ索道が通過していたことも分かった。当然のことながら今や往時の痕跡はキレイさっぱり見当たらない。索道は昭和40年頃まで存在していたそうだから私の父親は運ばれる石炭を見上げて育ったのだろうか。


◆◆◆


地元周辺の炭鉱について調べるため、先述の篠栗町の歴史民俗資料室に足を運んだ。入口の足跡帳を見ると、ここ数日は誰も訪れていない様子。そんな田舎の寂れた資料館である。お目当ての炭鉱に関する資料は二階に展示されていた。


資料を拝見すると、"石炭の産出量○○トン"とある。この数字を見てもイマイチその規模がわからないが、労働者数の推移を見てみると、篠栗の高田炭鉱では戦前戦後は1,000人以上が働いていたそうだ。当時の篠栗町の人口は定かではないが数千人程度だと思うので相当なウェイトを占めており、町の重要な産業だったことがうかがえる。


また、隣町である久山の方から篠栗まで石炭を運ぶトロッコ鉄道が敷かれていたこともわかった。なるほど、最近はWebで閲覧できる航空写真というものがあり、それを見ると60余年後の今でも鉄道敷設跡らしきものが確認された。それは貯水池を跨ぎ、丘を潜り、現在の篠栗北交差点から真っ直ぐ篠栗駅に伸びる道路と重なっているようだ。


もう一つ資料の中で興味を惹いたのが、高田炭鉱の労働災害の少なさである。炭鉱と言うと3Kという言葉に代表される過酷な労働条件とともに、ガス中毒や鉄砲水など事故が絶えなかったことでも有名だ。ところが高田炭鉱は創業から閉山までの間に目立った労災事故がなかったことそうで、国から優良表彰も受けていたという。そんな表彰制度があったことも驚きだが、炭鉱での仕事が危険と隣合せだということの裏返しでもあると言える。


◆◆


今回の訪問で自分が生まれ育った地域の、少なくとも炭鉱の歴史がわかったのだが、あまりというか全く近所の人や学校などでそのことを学ぶ機会がなかったのは何故だろうと思う。炭鉱は国の主力産業だったとはいえ、一民間企業が経営していたため利害関係者外にとって興味のないことだったのか、それとも義務教育で扱う必要がなかったのか、真相は不明であるが、石油へと著しく変わりゆく世の中で瞬時に忘れ去られていく運命にあったことは間違いないだろう。